

1、誕生と父の死
本多忠勝は天文十七年(一五四八)、兼通流藤原氏で三河岡崎松平氏(後の徳川氏)の家臣・本多忠高の嫡男として誕生した(「寛政重修諸家譜」。以後、「寛政譜」)。幼名は鍋之助とされている。生まれた場所は、現在の愛知県岡崎市西倉前とされており、その地には誕生碑が建てられている。
忠勝の生まれた翌天文十八年(一五四九)、岡崎松平氏を支援する駿河・遠江の大名・今川義元は右腕・太原雪斎の率いる軍勢を三河方面へ送り、尾張の織田信秀の長男・信広の籠る安城城へと攻めさせた。この時、父・忠高も城攻めに参戦したものの攻めあぐねた末、討死した。忠勝は乳児にして父を失ったのである。この後、彼を育て養ったのは叔父の忠真であった。
2、 若き日の姿
永禄三年(一五六〇)、忠勝はこの年に松平元康(後の徳川家康。以後、家康で統一)に仕えはじめたとされ、この年に起きた桶狭間合戦における大高城への後詰で初陣を飾ったという(「寛永諸家系図伝」、「寛政譜」)。
これ以降、忠勝は家康の旗本として翌年からの三州錯乱や永禄六年(一五六三)に勃発した三河一向一揆などに参戦し、手柄を挙げたようだ。だが、元亀三年(一五七二)まで同時代史料がなく、その活躍ぶりはほとんど後世の記録でしか伺えない。
ただし、寛永四年(一六二七)に比定される細川忠興書状(嫡男・忠利宛)によれば、信其なる人物の日記に、若き日の忠勝の姿が『唐ノ頭ニ本田平八』と狂歌にして記されていたという(「大日本近世史料 細川家史料二」)。これは、「家康に 過ぎたるものが二つあり 唐の頭に 本多平八」という有名な狂歌と同じフレーズであり、忠勝没後すぐに出回っていたことが窺える。
また、永禄五年(一五六二)に今川氏真の軍勢と戦った際、叔父の忠真が敵兵を押し倒し、その首を切るよう忠勝に勧めたが忠勝は却下し、自ら敵兵の首を取ったという逸話が伝わっている(「寛永諸家系図伝」)。
ともかく、若き日の忠勝は血気盛んで、誰もが羨むほど戦場で目まぐるしい活躍をしていたのである。
3、 元亀争乱と忠勝
家康が織田信長と同盟を結んでいる以上、信長の擁立する足利義昭政権の合戦に巻き込まれることとなる。元亀元年(一五七〇)、信長と家康は若狭の武藤友益討伐のため、出陣したが、それは支援していた朝倉義景追討の名目であった。しかし、金ヶ崎城落城目前にして信長の盟友であり義弟の浅井長政が突如寝返り、信長率いる幕府軍(及び家康軍)は窮地に陥った。この時、忠勝がどのような活躍をしたかは伺い知れない。
その後、無事に帰京した信長及び家康は浅井・朝倉討伐のため、近江に出陣する。姉川合戦である。この合戦で、忠勝は家臣ともども『武功』を挙げたという(「寛永諸家系図伝」)。
4、 一言坂合戦
元亀三年(一五七二)、同盟を結んでいた甲斐の武田信玄が突如として遠江の徳川領へと侵攻しはじめた。これを受け、一度は浜松城から出陣した家康だったが、その勢いを見て引き返すこととした。この際、忠勝はその殿を引き受け、武田軍と一戦交えた。世にいう「一言坂合戦」である。この時、七、八度も武田軍に当たり、忠勝とその家臣の活躍により、武田軍はついに家康を追うことができなかったという(同上)。
その後も信玄は着実に家康を追い詰めていき、浜松城近辺の土豪ですら武田方に靡く恐れが出てきた。そこで、忠勝は彼らを繋ぎ止めるために忠節を申し出てきた土豪と家康との取次を担った。それが十一月十一日付の家康朱印状への副状である(「祝田文書」)。これが忠勝発給文書の初見である。
忠勝は宛先の祝田新六へ、忠節の申し出に対し、①家康は祝着に思っていること ②今後も家康に忠節を尽くすべきこと ③懸命に取り次ぐので、褒美に関しては任せてほしいこと を伝えている。緊迫した情勢において、忠勝は合戦だけでなく、外交面においても大きな役割を果たしたのである。
なお、十二月二十二日の三方ヶ原合戦では忠勝は先鋒として武田軍と戦い、名のある家臣のみならず、叔父の忠真を失っている。
5、 長篠合戦と忠勝
天正三年(一五七五)五月、三河長篠城を包囲した武田勝頼に対抗するため、織田・徳川の連合軍は設楽原に着陣する。そして、この合戦で武田軍の多くの部将を討ち取り、大打撃を与えた。いわゆる「長篠合戦」である。
この時、忠勝は徳川軍の『軍奉行』として信長の陣営に派遣され、その指示を仰いだという(「寛永諸家系図伝」)。その指示に従い、忠勝は人馬を待機させ、鉄砲でもって武田軍を撃退させたという。この様子は「長篠合戦図屏風」にも描かれている。その後、退却する勝頼軍への追撃でも功を挙げたという。
その翌月からの二俣城攻めでは川辺で戦を繰り広げたようだ。その後の高明城攻めや小山城攻めにも参加している(同上)。
6、 忠勝の政治的地位
天正七年(一五七九)と天正九年(一五八一)、忠勝は浜松城の城普請に駆り出されている。この際、忠勝は同じく普請にあたっていた深溝松平家忠をもてなしている(「家忠日記」)。深溝松平家は家康の親戚筋にあたり、家忠は三河国衆の立場にあった。忠勝は家康の直臣として彼ら国衆を丁重に扱わなくてはならなかった。
天正八年(一五八〇)と十年(一五八二)の正月には、家臣たちによる年頭の挨拶の場で奏者(取次役)を務めている。また、十年五月五日の節句に三河衆で唯一浜松城に参上した家忠へ、家康の喜びの意向を知らせる使者となっている。このように、忠勝は家康の側近的な立場へと躍進しており、合戦以外に重要な儀礼での重役も担うようになった。
その翌月からの二俣城攻めでは川辺で戦を繰り広げたようだ。その後の高明城攻めや小山城攻めにも参加している(同上)。
7、 高天神城の落城
天正八年六月、徳川軍は遠江における武田軍の重要拠点である高天神城を攻めた。この時、忠勝は家臣を鼓舞して攻め寄せたという(「寛永諸家系図伝」)。また、七月二十四日には高天神城の支城であった小山城周辺の田畑の収穫物を刈り取る刈田を行った。この際、小山城の城兵が打って出てきて合戦となり、城の構えで家人三人が討ち取られている(「家忠日記」)。
翌九年三月、徳川軍は高天神城への総攻撃を仕掛け、ついに落城させる。これにより、武田勝頼に対する従属国衆の信用は急速に失墜することとなる。この際、忠勝は鳥居元忠とともに足軽を押して攻め上り、曲輪を落としたという(「水野勝成覚書」)。また、この報は信長の元へも届けられ、「信長公記」にはこの時の首注文が記載されている。
それによると、忠勝は二十二もの首を討ち取ったという。この数字は石川数正(四十)や酒井忠次(四十二)には劣るものの、奮戦したことを示してあまりある。また、信用できる史料で忠勝の武功が数字として記録されたほぼ唯一の事例でもある。
8、 安土、堺へ赴く
天正十年(一五八二)二月十八日、家康は武田勝頼討伐のために出陣する。忠勝もまた先鋒部隊として甲斐へと侵攻している(「家忠日記」)。
五月十一日、家康は安土城の信長の招きにより浜松城を出立した。この供に忠勝も加わった。十五日に安土城に到着した家康は信長からの手厚いもてなしを受ける。忠勝ら御供衆にも信長自ら『ふりもミこかし』なるものを作って振る舞ったという(同上)。
大層もてなされた家康一行は信長の勧めでそのまま堺へと赴き、遊覧を楽しんだ。
9、 伊賀越えと忠勝
六月二日早朝、家康は京の不穏な風説を耳にし、忠勝へ京で確報を得るよう命じたらしく、忠勝は一足先に京へと向かった。そして、その途中で茶屋四郎次郎と出会い、惟任(明智)光秀の謀反により信長父子が亡くなったことを聞いた(「石川忠総留書」)。
忠勝はすぐに馬を引き返すと飯盛山で家康らと合流し、その旨を知らせた。これを聞いて腹を切ろうとする家康に対し、忠勝は三河への帰還を説いたらしい(同上、「寛永諸家系図伝」)。
忠勝の諫言により帰る決心をした家康一行は長谷川秀一の手引きと人脈により、無事浜松城へ帰還することができた。この間、忠勝らは家康の警護を務めた。
10、 光秀討伐を呼びかける
六月十二日、家康は光秀討伐のために浜松城を出立し、十四日には鳴海に着陣した。この際、忠勝は美濃の織田家家臣・吉村氏吉と高木貞利に書状を送り、光秀討伐への参戦と人質の提出を呼びかけた。
吉村宛は家老・石川数正との連署であり、忠勝が家老と列する重臣クラスの地位にあったことが窺える。また、高木宛では『先日者以水野藤介方様子之段申述候処…』とあり、これ以前(伊賀越え段階)から彼らと密に連絡を取り合っていたことが分かる。
しかしながら、すでに当の光秀は羽柴秀吉が指揮する織田信孝軍と山崎で戦って敗北し、討ち取られている。津島まで出陣していた家康軍はやむなく浜松に引き返した。
11、 関東惣無事政策に関与する
天正十一年(一五八三)三月五日、忠勝は高木広正とともに家康朱印状の奉者となり、吉野助左衛門の知行を安堵しているように(「吉野文書」)、忠勝にとってこの年は比較的安穏であった。その一例として、関東惣無事政策への関与が挙げられる。
七月二十日、忠勝は下野の皆川広照へ書状を送り、無沙汰を詫びるとともに、家康が『関東諸家中』の『惣無事』を果たしたいと考えているので広照も尽力してほしいと伝えている(「皆川文書」)。
さらに、九月十五日には常陸の水谷勝俊に書状を送り、秀吉から家康に不動国行の名刀を贈られたことや秀吉が大坂に本拠を移したことを知らせている(「中村不能斎採集文書」)。追伸では、勝俊の『御馳走』に感謝しており、これも惣無事政策に関わるものと推測される。また、両人とは以前から誼を通じていたようだ。
家康による関東惣無事政策は織田信雄を当主とする織田政権下で行われており、忠勝は関東国衆との人脈をうまく利用して家康を支えたのである。そして、この頃より諸国の国衆や織田家との外交(連絡・取次)を任されるようになっていく。
12、 長久手合戦と忠勝
この年まで良好であった家康と秀吉だったが、翌天正十二年(一五八四)三月、織田信雄が秀吉に通じる三家老を誅殺したことを機に、家康は信雄に与して秀吉討伐へと舵をきった。四月、秀吉方の池田恒興ら三河中入り部隊の動きを察し、家康は小牧山城を出陣する。そして九日、長久手において彼らを討ち破った。
この時、忠勝は小牧山城の留守居を任されていたが、戦況に不安を覚え、石川康通とともに出撃し、『一番合戦』で羽柴軍と戦った(「山中氏覚書」)。また、秀吉本隊とも戦ったとされている(「「寛永諸家系図伝」等)。五月三日、美濃へと退いた秀吉が尾張中島郡に移ったのと合わせて中島郡萩原へ鉄砲隊を連れて出陣している(「不破文書」)。
その一方で、忠勝は秀吉の本拠地・大坂城の北に位置する丹波の国衆と連絡を取っている。中島郡に向けて進軍した同日、大槻久太郎に家康の上洛は間近であるから油断なく軍事行動を取るように促している(「譜蝶余録」)。
十六日には蘆田時直(荻野直政の弟)へ、時直の行動を追認する書状を出しており、領地は時直の思い通りとし、他の国衆が望んでも与えないと約束している。また、兵糧について、整い次第こちらから送るとしており、かなり優遇していることが窺える。
しかし、織田・徳川は徐々に追い込まれていき、ついには十一月に秀吉との講和が成立した。この際、忠勝は信雄の家臣・曽我尚祐に織田・羽柴の和睦を祝すとともに家康の帰陣を知らせている(「反町文書」)。
13、朝 日姫輿入れ騒動
天正十四年(一五八六)、秀吉は家康を服従させるために妹・朝日姫を家康の正室として嫁がせることを画策する。これに家康も同意し、祝言の手筈を整えさせた。ところが、四月十九日、突如祝言の延期が伝えられた。
その理由は、家康が朝日姫を送り迎える使者として派遣していた天野康景に対し、秀吉は『無御存知仁』だとして腹を立てたからである。そして、天野の代わりとして、酒井忠次、榊原康政、そして忠勝のうちから改めて使者を送るように命じたのである。
これに対し、面目を失った家康は激怒し、『事切れ候ハんか』と同盟破棄を口にしたが、信雄の使者に宥められて事なきを得た。そして、代わりの使者として選んだのは、忠勝だった。
二十三日、忠勝は早速大坂城へと向かい、秀吉との面会を果たす。おそらくはこれが秀吉と忠勝の初対面であろう。気を良くした秀吉は忠勝に藤原定家の小倉色紙と相州貞宗の脇差を与えた。また、大坂城内の茶室にて茶の湯でもてなしたという。千利休の茶であっただろう。秀吉の信頼を得た忠勝は朝日姫を連れて大坂城を後にし、五月五日、無事に清須城まで送り届けたのである(以上、「家忠日記」)。
この一件において、忠勝は実質的な天下人・秀吉からもその武勇と家格を認められていたことが窺えるだろう。しかも、その地位は石川数正出奔後の徳川家において唯一の家老・酒井忠次に次ぐものであった。
14、家老となる
天正十六年(一五八八)、忠勝はこの年に家老となったと考えられる。というのも、閏五月には駿河の金山衆に諸役免除や帯刀などの特権を認める定を出したり(「瀬場村文書」他)、十二月には甲斐・信濃・駿河三カ国の宿へ三十疋の伝馬を課しており(「歴代古案」)、今まで確認されなかった領内統治(内政)への関与が認められるのである。また、秀吉から従五位下・中務大輔に叙されている。
七月に西国の有力大名・毛利輝元が上洛してきた際には、京都屋敷を留守にしていた家康に代わって忠勝が挨拶回りにきた輝元一行に応対している(「毛利輝元上洛日記」)。すでに酒井忠次は隠居していたようで、彼が表向きの家老であったことは間違いない。
15、豊臣政権との交渉役
忠勝は豊臣政権との窓口を担っていたと考えられる。天正十九年(一五九一)、九戸政実らが蜂起し、家康ら諸大名がその討伐に駆り出された際、京にいた木村一(重茲)から忠勝に書状が送られた(「水戸市立博物館所蔵文書」)。
木村は忠勝の上京を一刻も早く待ち望んでいると述べている。これはただ単に昵懇だったからだとは思えない。なんらかの政治的な交渉をするために上京を促したのであろう。残念ながら、これ以外に木村との接点は見当たらない。
だが後述するように、忠勝は秀吉死去前後に石田三成と内密にやりとりをしており、しかも彼と昵懇だった可能性もある(「慶長年中卜斎記」)。その上、忠勝の妹は長束正家に嫁いでいたとされている。
このように、忠勝は豊臣政権の重役と強いパイプを有しており、なおかつ彼らを通じて政治案件を家康に取り次いだり、逆に家康の申出を伝達していたと思われる。
16、 別働隊として関東へ出陣
天正十八年(一五九〇)、秀吉は天下取りの総仕上げとして小田原北条氏の討伐を敢行する。忠勝は鳥居元忠、平岩親吉を連れて関東へ出陣する(「家忠日記」)。
四月、忠勝らは武蔵の玉縄城を包囲した。この時、家康の命を受けて玉縄城に降伏工作を仕掛けたという(「寛永諸家系図伝」)。忠勝家臣の都築秀綱らに説得された城主・北条氏勝は二十一日に降伏した。
さらに、翌月二十日には浅野長吉のもとで岩付城を攻めた。忠勝らは一気に二の丸、三の丸まで攻めて多くの首級を取った。これを受け、秀吉は忠勝らに捕えた女子供はこちらに送り、それ以外は撫で斬りにするよう命じている(「埼玉県立博物館所蔵文書」)。
その後、鉢形城や深谷城、八王子城を攻めており(「寛永諸家系図伝」)、六月二十四日には相模三増郷まで進み、翌日津久井城を包囲するが一日にして開城する。この際、家康から城の受け取りと兵糧等の用意を命じられている(「古文書集」)。
七月には上総の長南城に入ったようで(「寛永諸家系図伝」)、七月二十三日に近くの高谷延命寺へ禁制を出しているのがその証拠である(「延命寺文書」)。その後小田原へと向かい、小田原城の開城を見届けた。
八月七日、忠勝は八王子城攻めで共闘したであろう滝川忠征に書状を送り、八王子城攻めでの『肝煎』を謝すとともに、秀吉から兵糧米四千俵と万喜城、過分な知行を拝領したことを知らせている(「滝川文書」)。
17、 秀吉からの厚遇
小田原城開城後、忠勝はしばらく長南城にいたらしく、秀吉が会津仕置のため奥州へと向かう途中で宇都宮城に立ち寄った際、忠勝は秀吉に面会して佐藤忠信着用と伝わる兜を拝領している(「寛永諸家系図伝」、「忠信冑記」)。
さらに、秀吉が太閤となった後のことだが、平岩親吉とともに大坂城山里曲輪の茶室に招かれ、『大名衆なミニ』もてなされた上に、秘蔵の茶道具を拝見したという(「参遠古文書覚書」)。
文禄二年(一五九三)に島津領内で梅北国兼による一揆が起きた際、秀吉は浅野幸長(長吉の子)の軍勢を派遣した。しかし、幸長は幼かったこともあり、忠勝を副えることとした。(「寛永諸家系図伝」。なお、下向中に一揆鎮圧の報を受けて名護屋城に引き返す。)
このように、忠勝は天下人・秀吉から厚遇されており、独立大名に準する扱いを受けたのである。
18、 大多喜城主として
万喜城を与えられた忠勝だったが、すぐに大多喜城へと移った。しかし、忠勝が城主として残した足跡は非常に少ない。これは、忠勝が家康の在所にあることが多かったからであろう。
数少ない事績として、菩提寺・良信寺の建立がある。文禄四年(一五九五)九月二十五日、東漸寺の住職・了玄上人を招いて城の蔵前で百石の寺領を与えている(「旧良玄寺文書」)。
さらに、慶長二年(一五九七)には領内総検地を実施し、近世的な農村支配に成功した。さらに、後世の言い伝えでは六斎市を開いたり、上総土岐氏の旧臣を召し抱えたとされている。
19、 秀吉死去前後の忠勝
慶長三年(一五九八)八月十八日、天下人・豊臣秀吉が没した。この前日の六日、忠勝は石田三成の屋敷へ連絡なしに訪ねている。三成は忠勝の娘婿・真田信幸を介して連絡を取り、翌七日には三成のもとへ忠勝の書状が届いている(「真田家文書」)。この間、五大老・五奉行が互いに起請文を交わしており、おそらくはその作成に関わる案件であろう。
また慶長五年(一六〇〇)、会津の上杉景勝討伐のため出陣した忠勝は七月一日、岡崎城の田中吉政へ書状を送り、家康は無事に江戸城に着いたこと、二十日頃には会津に向けて出立するのでその用意をすることを伝えている(「色川本田中文書」)。
20、 「目付」として
七月二十一日、会津に向けて出陣した征討軍だったが、石田三成らの挙兵により再度江戸城に引き返した。忠勝は本来徳川秀忠隊に属する予定であったようだが(「太田和泉守記」等)、病状の芳しくない井伊直政の補助として、福島正則ら先発隊の「目付」のために上方へ出陣することとなった。
しかし、忠勝らの足取りは遅く、八月十九日に黒田長政らから兵を置いてでも清須城に来るよう促されている始末であった(「井伊達夫氏所蔵文書」)。その後すぐ清須城に入城し、軍議を開いた。そして二十一日、木曽川越えを敢行するのであった。
その翌日、忠勝・直政は家康側近宛と思われる連署状で竹ヶ鼻城の落城を知らせるとともに、軍議を開いて翌二十三日に織田秀信の籠る岐阜城を攻めることとなったとし、合わせて大坂城の毛利軍に動きはないことを報告している(「参陽実録」)。報告通り、翌二十三日岐阜城を攻め、たった一日で落とした。
その一方で渡河の際、忠勝らは正則の後に続くと申し出たが、他の諸将から反対されて最後尾になったといい、彼らは大名クラスの諸将の意見を優先せざるを得ない立場であった。
21、 西軍諸将への調略
岐阜城陥落後、忠勝・直政は美濃周辺の寺社や村落の要請で禁制を発給した(「安積六夫氏所蔵文書」等)。一方で、西軍についた武将への調略も行っている。
犬山城にいた加藤貞泰は以前より家康に通じていたようだが、二十八日、忠勝は犬山城の明け渡しと老母の提出を促す書状を送る(「大洲加藤文書」)。開城と人質には応じたものの、美濃へ出陣する動きは見せなかった。未だに西軍の動きを注視していたらしい。
九月三日、忠勝は直政、正則、池田輝政の三名と連署で貞泰と稲葉通重へ美濃への出陣を促している。しかし、貞泰はそれでも動こうとせず、十一日、柿二籠の礼を述べるとともに、翌日の家康の美濃赤坂着陣に合わせて出陣するように促している。
十四日、忠勝と直政は家康背後に位置する毛利軍の吉川広家・福原広俊に起請文を送り、輝元の進退を保証するとともに、両人の忠節を促した(「毛利家文書」)。同様の起請文は小早川秀秋の家老・平岡頼勝と稲葉正成にも送っている(「関ヶ原軍記大成」)。すなわち、忠勝らは西軍中心の武将と密約を結び、東軍勝利に一役買ったのである。
なお、同日家康が岡山へ陣を移した際に医師の鹿野玄庵が道案内と兵糧の提供をし、忠勝らが感状を出している(「鹿野家文書」)。
22、 関ヶ原合戦での活躍
家康が着陣したその日、杭瀬川において有馬豊氏らが島左近勢と会戦し、敗北する。この際、忠勝と直政は家康に命じられて中村らの撤退を助けた。単騎でかつ甲冑を身に付けていなかったという(「寛永諸家系図伝」)。
そして九月十五日、ついに東軍と西軍が刃を交えることとなる。この戦で忠勝が活躍するのは戦いの終盤、島津軍が家康本陣へと攻め寄せた、いわゆる「島津の退き口」の際である。一丸となって攻めてきた島津軍の真ん中へ入り、総崩れにさせたという(「太田和泉守記」、「内府公軍記」)。
また、忠勝は秀忠から拝領したという名馬・三国黒に跨って戦っており、この最中に島津軍の放った鉄砲玉があたり、三国黒は死んでしまった。そこで、家臣の梶金平が馬を差し出し、その馬に乗って再度戦ったという。この日だけでも九十もの首級を取ったという(「寛永諸家系図伝」)。なお、馬を献じたのは井伊家家臣の三浦安久という説もある(「三浦十左衛門家文書」)。おそらく、島津軍の執拗な射撃で何度か馬を失っていたのであろう。それほど激戦であったのである。
ともかく、忠勝は生涯最後となるこの戦いで死力を尽くして勝利に貢献していたのである。
23、 戦後処理
合戦後、忠勝らは大坂城に入城し、毛利輝元と大坂城退去の交渉を行う。この際、焦点となったのが十四日付の吉川・福原宛起請文である。晦日、忠勝、直政、康政の徳川三家老は窓口役の福島正則と黒田長政へ、輝元の嫡男・秀就との面会条件を提示している。
内容は、①薩摩島津氏討伐の際、毛利領国の城々に番手を入れること ②家老集から人質を取ること ③輝元の妻は大坂城の上屋敷へ移ること ④島津氏討伐の際は輝元が先陣を務めること ⑤西軍が取っていた人質を返上すること である。いわば、毛利家への最後通牒であった。
また、忠勝は十月、十一月に豊前の黒田如水に書状を送り、九州での功を労い、息子の長政が家康から高く評価されているので安心してほしいと伝えている(「黒田家文書」)。合戦前から家康との取次をしていた直政が重傷を負ったため、その代理として忠勝が如水ほか諸大名との交渉にあたったと見られる。
事実、忠勝は康政や本多正信とともに合戦の要因となった上杉家との交渉や親戚筋である真田家の助命嘆願にあたっている(「覚上公御書集」、「真田家文書」)。
戦後処理は桑名へ赴いた翌年まで続いている。出羽の岩屋右兵衛尉に書状を送り、上杉家との交渉を伝え、失敗したら秀忠が大将となって出陣することを知らせている。また、別の書状では滝沢又五郎との訴訟について、最上義光や正信から事情を伺ってから追って知らせると伝えている(「秋田藩家蔵文書」)。
24、桑名入城
慶長六年(一六〇一)正月には忠勝の伊勢桑名への入部が通達されており(「本多家文書」)、四月二十四日に嫡男・忠政とともに桑名城に入城した(「慶長自記」)。
桑名城主となった忠勝がまず取り組んだのが、桑名城下の町割であった。五月に命じると、翌月には町割普請が始められた。桑名城を中心として街全体を堀で取り囲むなど大掛かりな城下町整備を行なった結果、現在の桑名市の町並みの礎となった。それが一段楽した慶長七年(一六〇二)六月に桑名城の改修作業を始める(同上)。
25、忠勝の桑名統治
忠勝は信長の焼き討ちによって廃れていた寺社の復興にも貢献している。慶長八年(一六〇三)六月十五日、将軍・家康の命をうけて桑名宗社へ百石の寺領を寄進している(「桑名宗社文書」)。また、慶長十年(一六〇五)には多度大社を復興させ、慶長十三年(一六〇八)に絵馬を奉納している。
また、忠勝は領外の寺社にも影響力を持っており、慶長六・七年頃に行われた熊野本宮大社前の橋の架橋普請に際して、人足を賦課された伊勢浄楽寺にその件を家康と本多正信に伝えたと報じており、逐一正信へ進捗状況を報告するよう命じている(「本宮社家坂本氏所蔵文書」)。
さらには、慶長九・十年の伊勢国の国絵図・郷帳の作成にも関与したようで、伊勢亀山城主の関一政が家臣に宛てた書状で、忠勝に国絵図・郷帳完成の報を伝えるよう本書状を遣わすこと、忠勝の使者を懇ろにもてなすことを命じている(「黒田文書」)。
この一方で、領内の新田開発にも力を注いでおり、知行目録とともに新田帳が残されている。それによると、三百町もの新田畠が新たに耕作されたという。さらには、鉱山開発にまで手を付けていたとされる。
26、譜代大名の重鎮として
慶長八年、忠勝は家康の将軍宣下の儀に参加するために前年末から上洛し、当日には参内の行列に列している(「当代記」等)。慶長十年の秀忠の将軍就任時にも参列し、上洛前と帰国時には家康・秀忠の新旧将軍がそれぞれ桑名に滞在している(「慶長自記」)。いかに信頼されていたかが窺えよう。
また、幕府主導の城郭普請において伊勢組として人足を供出しており(「個人所蔵文書」)、特に慶長十年の彦根城普請では忠勝自ら出向いて普請の指揮を取ったようだ(「大坂城天守閣所蔵文書」)。
先述したように伊勢国の国絵図・郷帳作成にも関与しており、慶長十三年の筒井定次改易の際には伊賀上野城の撤収作業を命じられており、実際に赴いて任務を遂行している(「当代記」)。
忠勝は隠居を求めたが断られたという逸話が残されているように決して冷遇されることはなく、むしろ譜代大名の重鎮として晩年まで幕府から重用されているのである。
27、晩年の交流
晩年、忠勝は井伊家家臣の三浦安久との交流を深めており、安久から近江名物の鮒寿司や尾張大根などが贈られている(「三浦十左衛門家文書」)。鮒寿司は何度も贈られており、忠勝の好物だった可能性が高い。また、ある年の七月二十二日には関ヶ原合戦の談議で盛り上がったようである(「中村不能斎採集文書」)。彦根城普請の際には、宇津木泰繁へもてなしを謝する礼状を送っており、主君・井伊直勝との交流も窺える(「大阪城天守閣所蔵文書」)。
また、婿・真田信之の家臣であった湯本三郎左衛門とも親しくしており、訪問した際のもてなしを感謝するとともに来春はともに湯治へ出かけ、積もる話をしようと約束している(「熊谷文書」)。
さらに、忠勝は娘・小松姫のことにも言及し、『ぬまた我々むすめ方』へ懇ろに接してほしいと頼んでいる。父親として娘の性格を危ぶんだのであろうか。子煩悩な姿が率直に出ており、なんともほほえましい。
28、忠勝の最後
眼病に苦しめられていた忠勝だったが、慶長十五年(一六一〇)閏二月、三河田原に鹿狩りに来ていた将軍・秀忠のもとへお目見えのために馳せ参じている(「佐竹文書」)。これが一次史料における忠勝最後の動向である。この際、勢子の人数の多さに忠勝は「三方ヶ原合戦での武田信玄の軍勢に異ならない」と評したという(「寛永諸家系図伝」)。数多の戦場で活躍した忠勝の最期を締めくくる逸話である。
同年九月、突然病に罹り、すぐに曲直瀬玄朔の治療を受けて一時は回復したものの、翌月には再発してしまい、介抱の甲斐もなく十月十八日、そのまま息を引き取った(「慶長自記」)。享年六十三であった。忠勝の訃報を聞いた家康は大いにその死を嘆いたという(「寛永諸家系図伝」)。
忠勝の死は諸大名にも少なからず影響を与えたようで、婿の信之へ浅野幸長から追悼の意を示す書状が送られている(「真田家文書」)。九度山にいた父・昌幸もその知らせを聞いて小松姫に悼みの書状を送っている。
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