本多忠勝発給文書集(PC版でご覧ください)

1 元亀三年十一月十一日 祝田新六宛徳川家康朱印状副状

 

今度御忠節可有之候由候間即披露候処、一段祝着之御意候、いよ〳〵かせき一形御忠節可被仕候、涯分申立御ほうひ等之儀、我々ニまかせおかれ候へく候、少も如在有ましく候、仍如件、

                 本平八

十一月十一日            忠勝(花押)

     ほう田

       新六

(「祝田文書」)

〈解説〉忠勝が遠江国祝田(三方原の近く)の土豪に宛てた家康朱印状に対する副状。忠節の申し出に対する家康の意向を伝え、今後も忠節を尽くすことが肝要であり、懸命に取り立てるから褒美に関しては自分に任せてほしいと伝えている。「隋庵見聞記」に掲載され、この判物が元亀三年に武田信玄が二俣城を攻めた際(三方ヶ原合戦前)のものと記述されており、月日や地名が記述に合致するためそれに従った。

2 天正三年二月四日 村上国清宛書状写

 

追而国清御同道ニ而御上洛之様被承候、乗心成程四調雄馬一匹貴方え被致進入候、路地等之義委曲可被仰聞候、将亦家康随分秘蔵と申候得共被申候、当四歳元来信州真田黒と申候而目出度様子ニ候馬ニ而御座候、委細路地共可預示候、

雖未申通候一筆啓候、抑累年輝虎家康別而御入魂被仰合候付而此間以権現堂御懇情被仰遣候、弥御祝着之旨被及御報候、貴所えも以直札被申入候、向後之義尚以御入魂之様御取成等所仰候、拙夫雖若輩者候御取次を可申上様於自分相応之御用候無御隔承之、不可有疎意候、当日彼此使者口上ニ有之候間不能□候、恐惶謹言、

  二月四日            本多平八

忠勝

      村上源吾殿

(「村上家伝」)

〈解説〉上杉家家臣・村上国清(村上義清の子)に宛てたもの。家康と謙信の昵懇関係に触れ、若輩ながら継続できるよう取次などに尽力する旨を伝えている。また、家康からの贈答品として「真田黒」なる名馬を贈っているのも興味深い。しかし、「村上家記」の成立事情から偽文書である可能性もあり、検討を要する。

3 天正十年六月十四日 吉村氏吉宛連署状

 

先日ハ示預候、如何今度之不慮無是非次第ニ候、其ニ付而京都可被打上存候、其元儀何篇ニも可有御馳走之由家康一段祝着被申候、各被申合此時候間是非明智可被討果之由ニ而今日十四日到鳴海被至着陣候、弥御馳走肝用候、御存知も候はゝ涯分可被申謂之由候、此方之儀可被任置候、然者御質物之儀早々被越候はゝ猶々祝着可被申候、恐々謹言、

  六月十四日        石川伯耆守

                  数正(花押)

               本田平八郎

                  忠勝(花押)

   吉村又吉郎 御宿所

(「吉村文書」)

〈解説〉本能寺の変後、美濃国・松ノ木城主の吉村氏吉へ宛てたもの。以前より連絡を交わしていたらしく、惟任光秀討伐のために尾張国鳴海に着陣したことを知らせ、討伐への参陣と人質の提出を促している。家老・石川数正とともに連署しており、この時点で忠勝が酒井忠次と数正の両家老に次ぐ地位にあったことが窺える。

4 同年同月日 高木貞利宛書状

 

先日者以水野藤介方様子之段申述候処一々御合点之儀共家康大慶被存候、然ハ今日十四日ニ至鳴海着陣被仕候、左様候へ者京都へ被討上候儀急々ニ被存候間沖之事候之條質物等之儀早々被仰付而可然候、此時候間是非被廻御才覚御馳走尤候、猶重而可申述候間不能懇筆候、恐々謹言

  六月十四日        本多平八郎

                  忠勝(花押)

    高権右衛門尉殿 御宿所

(「市村靖氏所蔵文書」)

〈解説〉同じく美濃国・今尾城主の高木貞利に宛てたもので、内容は3と同じである。家康が忠勝らを通じて光秀討伐のために美濃国の織田家家臣と積極的に連絡を取り、参戦への協力を呼びかけていたことが窺える。

5 天正十一年三月五日 吉野助左衛門宛家康朱印状奉書

 

駿州富士郡由野郷おゐて五拾貫文、同吉原之郷七拾二貫五百文、棟別一間免許之事、右本給不可有相違之状、仍如件、

天正十一年                本多平八郎

  未癸三月五日 (朱印)                   高木九助

                               奉之

                      吉野助左衛門殿

(「吉野文書」)

〈解説〉富士郡に本領をもつ吉野助左衛門にその領地の安堵を伝える朱印状。高木広正とともに奏者を務めており、家康の命令を奉ずる側近としての立場にあることが窺える。

6 同年ヵ七月二十日 皆川広照宛書状案

 

 尚以御無事之儀調候様御馳走偏可有御分別之由被申事候

去頃者預御状候、再三拝見忝存候、則御報可令申候処彼御鷹師衆帰路之時分致他出背本意候、誠以失面目存候、其後ハ遠境ニ付便宜不承無音口惜存候、随而関東諸家中江惣無事之儀家康被申扱度之由候而只今小倉松庵被差遣候、可然様御才覚祝着可被申候、尚奉期後音之時候、恐々謹言、

七月廿日                  忠勝

   皆河山城守殿 人々御中

(「皆川文書」)

〈解説〉下野国の国衆・皆川広照に宛てたもの。しばらく返信できなかったことを詫び、関東惣無事を扱いたいという家康の意向を示して尽力するよう伝えている。忠勝は家康の関東惣無事政策に関与していた。

7 同年九月十五日 水谷勝俊宛書状写

 

 猶々其元之様子之儀ニ付て名倉松庵を以被申入候儀御馳走忝可被存候、

内々自是可被申入之所存候処御使者家康一段祝著被申候、仍上方儀筑前守何篇にも家康与入魂被申候、去月三日不動国行之御腰物自羽筑家康へ被進之候、只今ハ大坂ニ普請被仕候、京都をも大坂へ可引取之由候、旧冬者蟠竜斎爰元へ御越候処各不馳走申候而于今口惜之由申事候、貴所様之事者自前々拙夫式御存知之事候間向後上辺御用之儀不被置御心於被仰付候者可為本望候、不断家康も御噂被申出迄候、何事も重而可申述候条早々申入候、恐惶謹言、

 九月十五日           忠勝(花押影)

  水谷伊勢守殿 御宿所

(包紙)「水谷伊勢守殿 御宿所       本多平八郎

                       忠勝」    

(「中村不能斎採集文書」)

〈解説〉常陸国の国衆・水谷勝俊へ宛てたもの。前半では家康・秀吉の協調関係や秀吉の動向についてふれており、両者の親密な関係性を強調している。後半では、勝俊の兄・蟠竜斎が去年の冬に来た際に何ら馳走できず口惜しいと言い、上方に御用があるなら遠慮なく申し出てくれれば本望だと伝えている。こちらからも関東惣無事政策に携わっている様子が窺えよう。

8 天正十二年五月三日 大槻久太郎宛書状写

 

尚々先度も書状相届申候 御報申候間定参着たるへく候、弥平兵被仰談可然才覚専肝候、

就家康出馬之儀遠路飛脚差越候、及披露委曲以直談被申候、将又其元各被相談可被行之□(由ヵ)祝著被申候、種々調略之儀共候間上洛不可有程候、弥無油断被遂御忠節候ハゝ其元可属御存分候事候、期後音之時候、恐々謹言、

  五月三日          本多平八郎忠勝判

  大槻久太郎殿 御返報

(「譜蝶余録」)

〈解説〉小牧・長久手合戦の最中に丹波国の国衆・大槻久太郎に宛てたもの。飛脚の話を家康面前で披露し、色々と話し合ったことを知らせている。国衆同士で相談して軍事行動を取ろうとするのを家康が納得し、また各方面に調略を巡らしており、まもなく家康が上洛するだろうから油断なく行動するよう伝えている。9とともに、忠勝が秀吉包囲網形成の一角を担っていたことを示す史料である。

9 同年同月十六日 蘆田時直宛書状案

 

 尚々其表之儀承一段丈夫ニ被仰付之段拙者一人之様ニ令満足候、兵糧此地ニ可有逗留之由被仰候へ共先御帰候へと申かへし進之申候、重而御吉左右可申入候、

内々其元之儀無心元被存候折節御大儀ニ而兵頭平七被差越候、様子見被承一段祝着被申候、

一久留井被為引取御番御堅固被仰付之由尤之儀候、 一其国之義御存分之通具ニ被得御意候事、一御知行方是茂何分ニモ其方次第思被申候事、一其国之衆知行被望候得共余人ニハ可相替候間別条有間敷候事、一御兵糧之儀少茂無沙汰被申間敷候、御使者如御存知拙者旗元遥相隔手先ニ存事ニ候間只今不申調候、軅而自是可申調候、一其方御一人被成御行之儀御手柄ニ被存候事、一悪右御息御取立可被成候由是も第一尤之儀候事、一其国御かつさ衆之儀懇ニ披見ニ入候、何も御走廻尤之由候、何様ニも疎略被申間敷候事、一右之通以直書被申入候事、一此表之儀去一日ニ筑前犬山表を引入候事、一只今之敵陣取之儀濃州境目おうら三柳と申所ニ陣取之事、一敵国自方々申様計略数多御座候、八幡者偽ニ而無御座候事、一此上近日存分之儀可為御心安候、不及申候へ共弥其表堅固ニ被仰付無御由断様ニ専一候、委曲彼両人申渡候間不能具候、恐々謹言、

五月十六日                 忠勝

蘆田弥平兵衛尉殿 御報

(ウハ書)「              本多平八郎

    蘆田弥平兵衛尉殿 御報           忠勝」

(「神田孝平氏所蔵文書」)

〈解説〉8と同じく丹波国の国衆・蘆田時直(荻野直正の弟)へ宛てたもの。時直の行動を尤もだと称賛し、丹波国での知行は時直の考え次第だとして伝えている。褒賞における大槻との扱いに雲泥の差があり、最有力の時直を優遇していたといえよう。挙句には兵糧の輸送まで申し出ており、家康上洛作戦の本気度が窺える。

10 同年十一月十四日 曽我尚祐宛書状

 

 尚々御状拝見忝候、自之可申入之処何ケ度取乱候故乍存知無沙汰之儀ニ候、委細御使者へ申渡候間不能具候、以上、

思召寄御使札本望之至候、如仰御無事早々相済目出存候、近日家康開陣可被申候、東筋自然相応之御用可蒙儀候、疎意存間敷候、尚期来信之時候、恐々謹言、

 十一月十四日            忠勝(花押)

(切封)「〆             本多平八郎

    曽又六様 御報                 忠勝」

(「反町文書」)

〈解説〉信雄の家臣だった曽我尚祐に宛てたもの。信雄と秀吉の和睦を祝しており、家康も近々帰陣することを伝えている。対織田家の取次や小牧・長久手合戦後の家康・秀吉間の和睦交渉への関与が窺える。

11 天正十六年閏五月日 金堀宛定書写

 

一山先其身一代名字帯刀鑓鞍馬鋏箱御免

一山金柴金川金何方に有之堀候而茂不苦候

 天正十六歳戌閏五月日

    本田中務少輔

 (「望月岩雄家文書」)

〈解説〉駿河国内の金堀衆に国内での金の採掘と苗字帯刀を許可したもの。静岡県内の旧家に「御定法」という巻物が多く残されており、その中にこれも含まれている。

12 同年月同宛定書写

 

  11とほぼ同じため、省略。

(「志村久男家文書」)

〈解説〉11を参照。

13 同年月同宛定書写

 

  11とほぼ同じため、省略。

「秋山文書」

〈解説〉11を参照。

14 同年同月十四日 金山衆宛定書写

 

一分国中山金川金柴原諸役免許之事

一分国中在留所棟別諸役免許之事 但金堀之外可徐之事

一譜代之者何之有之共如前々可返之事

右之條々不可有相違者也、仍如件、

天正十六年               

本多中務

     閏五月十四日

金山衆

(「瀬場村文書」)

〈解説〉山形県に残っているが、恐らくは11〜13と同様に駿河国内の金山衆に出されたものだろう。棟別銭などの賦課を免除したもの。他にも類例があり、一斉に出されたものである。

15 同年十二月日 駿甲信宿々宛伝馬手形写

 

伝馬三拾疋、無相違可出候、仍如件、

 戌子十二月日           本多中務大輔

奉之

駿甲信 宿々

(「歴代古案」)

〈解説〉徳川領国の駿河・甲斐・信濃三国に馬三十頭の伝馬を申し付けたものである。

16 天正十八年六月二十四日 相模国三増郷宛連署禁制写

 

禁制              相模国見増之郷

軍勢甲乙人乱妨狼藉之事

一放火之事

対地下人申懸非分事

々堅令停止畢、若有違犯之輩者速可所厳科之由被仰出候、仍如件、

天正十八年六月廿四日   本田中務少輔(花押影)

平岩七之助(花押影)

                                             戸田三郎右衛門(花押影)        鳥居彦右衛門(花押影)

(「相州文書」)

〈解説〉相模国三増郷に出された禁制。武蔵国岩付城を落とした忠勝らはこの翌日に三増郷の近隣である津久井城を攻めている。着陣した際に発したのであろう

17 同年七月二十三日 高谷延命寺宛禁制写

 

禁制                      高谷延命寺

軍勢甲乙人等乱妨狼藉之事

対寺家非分申懸之事

一放火之事

右条々令違犯者可処厳科者也、仍如件、

天正十八年七月廿三日     本多中務(花押影)

(「延命寺文書」)

〈解説〉上総国高谷延命寺に出された禁制。忠勝のみであることから、津久井城開城後、忠勝は単独で上総国に進軍したと見られる。

18 年八月七日 滝川忠征宛書状

 

急度申入候、仍先日者能折節貴所其地ニ而御座被成遥々御肝煎忝候、御肝煎故拙者存分ニ相澄上総之国万喜之城被仰付殊御知行過分ニ被下其上最前小田原ニ而御兵糧三千拝領致之、又今度之万喜之城ニて兵糧千俵拝領仕候、外聞実儀施面目候、可御心安候、加様之儀も偏御肝煎故与存候、日々可申入候へ共先以飛脚申上候、何事も追而可申候間令省略候、恐々謹言、

  八月七日       本田中務太輔

                  忠勝(花押)

  滝川彦次郎殿 御陣所

(「滝川文書」)

〈解説〉小田原城開城後、共に戦ったであろう滝川忠征に宛てたもの。秀吉から上総国万喜城と兵糧計四千俵、過分な知行を拝領したと報じている。忠征の『肝煎』(助力)を何度も感謝しており、忠勝の人となりがよく窺える書状である。

19 文禄四年九月二十五日 了学上人宛判物

 

雖軽微之至候百石之物成蔵前ニ而相渡申候、猶寺家致建立御寺領相定可申者也、

文禄四年           本多中務

    九月廿五日         忠勝(花押)

   東漸寺 侍者御中

(「旧良玄寺文書」)

〈解説〉菩提寺である良信寺(のち良玄寺)建立のために上総小金東漸寺の住職・了学上人を呼び出し、寺領百石を寄進したものである。大多喜領主・忠勝の数少ない足跡である。

20 慶長五年七月朔日 田中吉政宛書状写

 

被入御念候、去廿五日書状今日至朔日到来被見申候、内府無何事参着被申候、可御心安候、此方出陣之儀廿日時分ニ而御座可有候、其分御心得可被成候、樫之儀于今定不申候、隋而今度在洛中馳走忝存候、何事も追而可申候間令□□(省略ヵ)候、恐惶謹言、

  七月朔日        本多中務

  田中民部様 御□           忠勝(花押影)

(「色川本田中文書」)

〈解説〉会津の上杉景勝を征討する際、岡崎城主・田中吉政に宛てたもの。家康が無事江戸城に入城したことを伝え、会津に向けての出陣を七月二十日頃とし、そのように心得る(出陣の準備をする)よう指示している。

21 同年八月二十二日 宛先不明連署状写

 

undefined今日竹ケ鼻ノ椙村(浦)五左衛門踏ツブシ申候、最早岐阜手当の砦無御座候、明日諸将一同ニ岐阜ヲ取詰可被攻崩評議一決仕候、兼テ如申上犬山ハ御味方ノ体ニ候、自大坂後詰可仕様子ニ茂無御座候間可御心安候、若大垣(坂)ヨリ後詰ノ加勢候ハゞ、岐阜ヲ押置其後詰ノ勢ヲ喰留大垣ヲ付入乗崩可申ト是又諸将一決評議ニ御座候、明日之様子ヲ見合御出馬ノ義可申入ト両人相談仕候、此旨御披露可有之候、恐惶謹言、

  八月廿二日戌下刻          井伊兵部少輔

本多中務大輔

(「参陽実録」)

〈解説〉目付である忠勝・直政が家康へ木曽川渡河の戦況を報告し、さらに大坂城の毛利輝元の出陣を見越した戦略を取ることを諸将との軍議で決めたことを知らせている。目付としての具体的な働きが読み取れるものであり、なおかつ輝元への警戒心が強かったことが窺える。

22 同年八月二十四日 野口村宛連署禁制

 

禁制              会原内のくち村

一当手軍勢藍妨狼藉之事

一放火之事

一田畠毛苅取之事

一竹木剪採之事

一男女ニよらす人を取事

 以上

右條々違犯之輩於在之者忽可処厳科者也、

慶長五年

   八月廿四日        本多中務(花押)

                井伊兵部(花押)

(「安積六夫氏所蔵文書」)

〈解説〉「目付」として出陣し、豊臣大名を指揮統制していた両者が八月二十三日の岐阜城陥落後に美濃赤坂付近の村々や寺社に一斉に発給したもの。ちなみに、関ヶ原合戦後まで家康の発給した禁制は確認できない。

23 同年同月日 神戸村宛連署禁制写

 

禁制              西尾領神戸村中

一甲乙人等濫妨狼籍之事

一陣取・放火之事

一田畠苅取之事

一竹木伐取之事

一対地下人非分申懸之事

 右々堅令停止訖

   慶長五           本多中務 在判

     八月廿四日       井伊兵部少在判

(「高橋宗太郎氏所蔵文書」)

〈解説〉22の解説を参照。

24 同年同月日 正慶寺宛禁制

 

禁制

                         末盛 正慶寺

一濫妨狼籍並男女以下押取之事

一放火之事

一非分申懸之事

々堅令停止之事

慶長五年八月二十四日              井伊兵部少輔(花押)

        本多中務大輔(花押)

(「性顕寺所蔵文書」)

 

〈解説〉22の解説を参照。

25 同年同月二十八日 加藤貞泰宛書状

 

 尚々其城御才覚候而早々渡申候様ニ可被成候、城才覚被成其上貴殿へも此方可被成候、以上、

乍幸便一書申入候、其城はや御渡候事候間貴所御作上之儀涯分肝煎可申候間早々我々陣所迄御出可被成候、最前此表へ陣寄之刻も貴所御老母之儀も無異儀様ニと我々折紙を遣申何篇ニも如在申間敷候、早速御出可被成候、恐々謹言、

  八月廿八日        本多中務

                  忠勝(花押)

  加藤左衛門尉殿

(「大洲加藤文書」)

〈解説〉西軍として犬山城に籠城している加藤貞泰へ宛てたもの。犬山城を早々に開城して美濃へ出向くこと、人質として老母を提出することを指示している。

26 同年九月三日 加藤貞泰・稲葉通重宛連署状

 

態申入候、然者大柿城中より苅田ニ罷出候間稲葉甲斐守殿貴所為押うしき村ほんてん村両所ニ御在陣可被成候、不及申候へ共御精を被出夜待ニ被仰付尤候、恐々謹言、

  九月三日        羽左衛門太夫

                  正則(花押)

              羽三左衛門

                  輝政

              本多中書

                  忠勝(花押)


              井

加藤左衛門尉殿

稲葉甲斐守殿

(「大洲加藤文書」)

〈解説〉福島正則・池田輝政・直政とともに内通していた貞泰と稲葉通重に美濃への出陣を要請しているもの。

27 同年同月六日 安楽寺宛連署状

 

赤坂岡山之安楽寺ニおひて濫妨狼籍非分申懸族於有之者可為曲事者也、

             本多中務少輔

  九月六日            忠勝(花押)

             井伊兵部少輔

                  直政(花押)

(「安楽寺文書」)

〈解説〉美濃国赤坂の安楽寺に出されたもの。内容から禁制と同じ意味を有している。

28 同年同月十一日 加藤貞泰宛書状

 

以上

被入御念預御飛札候、殊見事之柿二籠送被下候、御懇志之至忝奉存候、内府も明日者定此方まて可被参候と存候、是へ被参候者涯分御取合申候、爰元へ御越被成候様ニ可仕候、可御心安候、将亦清須へ書状被為遣候由忝存候、何も以面可申候間早々、恐々謹言、

  九月十一日      本多中務少

                  忠勝(花押)

  加藤左衛門尉殿 御陣

(「大洲加藤文書」)

〈解説〉貞泰へ柿二籠贈答のお礼と共に、明日に控える家康の赤坂着陣に合わせて参陣するように要請している。忠勝らの要請になかなか応じようとしないことが窺える。

29 同年同月十四日 吉川広家・福原広俊宛連署血判起請文

 

  起請文前書事

一対輝元聊以内府御如存有間敷候事

一御両人別而被対内府御忠節上者以来内府御如在被存間敷候事

一御忠節相究候者内府直之墨付輝元へ取候而可進之事

付御分国之事不及申如只今相違有間敷候事

右之三ケ条両人請取申候事若偽於申者忝も梵天、帝釈、四大天王、惣而日本国中大小神祇、別而八満大并、熊野三所権現、加茂、春日、北野天満大自在天神、愛宕大権現可蒙御罰者也、仍起請文如件、

  慶長五年九月十四日 本多中務太輔

                  忠勝(血判)

            井伊兵部少輔

                  直政(血判)

     吉川侍従殿 

     福原式部少輔殿

(「毛利家文書」)

〈解説〉関ヶ原合戦前日に南宮山の毛利秀元隊にいた吉川・福原に宛てた起請文。輝元の進退を保証する代わり、広家らの忠節を促した。これにより、家康背後から西軍部隊に襲われる危険性がなくなった。東軍勝利の一要因といえよう。

30 同年月日 平岡頼勝・稲葉正成宛連署血判起請文写

 

起請文前書事

一対秀秋聊以内府御如存有間敷候事

一御両人別而被対内府御忠節上者以来内府御如在被存間敷候事

一御忠節相究候者於上方両国之墨付秀秋取候而可進之事

右之三ケ条両人請取申候、若偽於申者忝も梵天、帝釈、四大天王、惣而日本国中大小神祇、別而八満大并、熊野三所権現、加茂、春日、北野天満大自在天神、愛宕大権現可蒙御罰者也、仍起請文如件、

  慶長五年九月十四日      本多中務太輔

                      忠勝血判

                井伊兵部少輔

                      直政血判

    平岡石見守殿 

    稲葉佐渡守殿

(「関ヶ原軍記大成」)

〈解説〉29とほぼ同様の内容で小早川秀秋の家臣・平岡頼勝と稲葉正成に宛てて出されたもの。「関ヶ原軍記大成」には偽文書も含まれているため、この文書も検討を要する。

31 同年月日 鹿野玄庵宛連署印判状

 

濃州赤坂岡山陣所致案内其上兵糧米五拾俵差送神妙之至候、為褒賞以後帯刀許之、領地之事追而可及沙汰候者也、

   慶長五庚子年九月十四日                     

                本多中務大輔忠勝印

                井伊兵部少輔直政印

鹿野玄庵へ

(「鹿野家文書」)

〈解説〉家康が岡山へ着陣する際にその案内をし、兵糧を差し出した医師・鹿野玄庵へその功を称えて帯刀を許可している。なお、忠勝が関ヶ原合戦時に印判を使用した類例は他になく、検討を要する。

32 同年同月晦日 福島正則・黒田長政宛連署覚書

 

一薩摩へ之行付而広島迄中納言可被致出勢候条如太閤様御置目路地  筋諸城へ番手可被入置事

一御家中年寄衆質物可被出事

一輝元御内儀如前々当地上之御屋敷へ可有御移事

一薩摩御陣御先へ輝元御自身可有御出陣事

一今度上衆質物急可被返上事

右之旨相済候上藤七郎殿へ対面可被申由候、以上、

              榊原式部太輔

  九月晦日            康政(花押)

              本多中務太輔

                  忠勝(花押)

  羽柴左衛門太夫殿    井伊兵部少輔

  黒田甲斐守殿          直政 (黒印)


(「毛利家文書」)

〈解説〉徳川三家老が毛利輝元との戦後交渉において最終的な約定(毛利家当主・秀就との面会条件)を交渉窓口の福島・黒田に通告したものである。

33 同年十月五日 黒田如水宛書状

 

以上

内ゝ自是可申入所存候処預貴札忝存候、

一今度不慮之御取逢ニ罷成候処ニ早々事澄御満足奉察候事、一今度甲斐守殿万事被入御精方ゝニ而御手柄共候、就其内府も一段甲斐守殿懇ニ被存候間可御心安候事、一於豊後表方ゝ被御合戦被切崩儀無比類候事

一大友被成生捕候儀是又御手柄共候事

一此中切ゝも以状も不申入無沙汰申候事

一其元被明御隙御上洛候へかし与存候事御目相談儀可得御意候事

一甲州頓而其元へ可有御座候間何事も其節猶可申入候、恐惶謹言、

                本多中務大輔

   十月五日           忠勝(花押)

   黒田如水様 貴報

(「黒田家文書」)

〈解説〉合戦終結後、九州で戦っていた黒田如水に宛てたもの。息子・長政の動向・手柄を家康も評価していると報告して如水を安心させ、如水の働きを賞賛している。 同様に負傷した直政に代わって黒田家との連絡役を務めていることが分かる。

34 同年十一月十四日 同人宛書状

 

以上

内ゝ自是可申入折節預貴札忝存候事、一豊後表貴殿御覚悟を以早々被仰付偏貴殿御手柄故と存候事、一柳川表へ早々御働候処ニ鍋嶋及一戦柳川之者数多被打取候由尤之御事ニ候、貴殿なと御働承候故と存事ニ候事

一薩摩表加主斗・鍋嶋・貴殿被仰合御働可被成之旨尤存候、乍去先ゝ御無用之由被申候、委細井兵少可被申入候事、一甲刕別而申談候、今度甲刕御手柄方ゝニ而御働御才覚残所無御座候、可御心安候事、一段内府も懇比被申候、可御心易候事

一筑前之国甲刕江被進候、此上弥御国をも猶又御取可有候、可御心安候事

一其許御隙被明候者少ゝ貴殿も爰元御見舞候而可然候、何事も掛御目候而可得御意候事

一是式ニ候得共小袖三つ・羽織三つ進候、書状之験迄ニ而御座候、自然爰元相応之御用□候者可被仰付候、恐惶謹言、

  霜月十四日           忠勝(花押)

(包紙裏書)「 (墨引)        本多中務

     黒田□水様 人々貴報        忠勝」

(「黒田家文書」)

〈解説〉33の一ヶ月後に出されたもの。前回同様、九州における如水の手柄を賞賛しているが、長政に筑前国が与えられたことを知らせている。長政の手柄を報告した際に「可御心安(易)候」を連続して使用しており、子を持つ親としての感情が見て取れる。

 

35 慶長六年二月十三日 岩屋右兵衛尉宛書状写

※活字化されていないため、独自で解読。

 

遠路被入御念御使札并若鷹一居被進候、別而被□候処別而御祝着ニ思召被成御書候、今度其表之儀被入御精之條具ニ申候処是又祝着ニ被思召候、就中会津表之儀直江かたゟ御詫言申上候条随而相済可申□ニ而存事候、若相違之仕者中納言殿被成御出馬可仰付ニ而□□御手間入申間敷候条可御心易候、於御使者へ委曲申渡候条不能委細候、恐々謹言、

              本多中務

  二月十三日          忠勝(花押影)

  岩屋右兵衛尉様 御返報

(「秋田藩家蔵文書」)

〈解説〉出羽国の領主・岩屋氏(出羽由利十二頭の一人)に宛てたもの。酒田への侵攻を家康が祝着している旨を伝えると共に、会津の上杉家からの「御詫言」(謝罪)にも触れ、万が一戦となった際は秀忠が出陣することになっていると記されている。

36 同年五月二十四日 同人宛書状写

 

卯月廿九日之御状一昨日廿二日ニ於勢州桑名拝見申候、然者酒田表へ御働被成候由尤ニ存候、被入御精故早速相澄近頃御手柄共申候、随而滝沢又五郎貴殿之御代官所茂上殿頼入御訴訟申候とて御迷惑之由蒙仰候、尤無余儀候、我等も勢州桑名へ用共御座候而罷在事候間一切不存候、本佐州出羽殿へも相尋ニ人を進候間定而何とそ可申来候、様子追而従是可申入候、恐々謹言、

              本多中務

  五月二十四日         忠勝(花押影)

   岩屋右兵様 御報

(「秋田藩家蔵文書」)

〈解説〉35の三ヶ月後に出されたもの。酒田表への侵攻を称賛し、出羽国主の最上義光に提訴された滝沢又五郎との訴訟案件について、桑名にいるため全く知らなかったことを伝え、本多正信や義光の元へ使者を遣わしたので詳報を聞いてから追って返答するとしている。翌年になっても戦後交渉に関与していたことが窺える。

37 慶長八年四月三日 池田輝政宛書状写

 

先日御参内之砌、卒度懸御目候、巳来此中御宿へ以参も不申入ふさた迷惑仕候、然ハ飯田半兵息子之儀被召置候由被申半兵一段忝候、御隠にて被申事候、拙者式も毎々ゟ別而知音之儀ニ御座候間被懸御目候て於被召遣ハ拙者式迄可忝候、何事も貴面にて可得御意候、恐惶、

  卯月三日           本多中務 花押なし

   羽柴三左様 人々御中

(「黄薇古簡集」)

 

〈解説〉輝政へ、旧友・飯田半兵衛の遺児を面会した際に引き取り、家臣として取り立てるよう頼んでいるもの。忠勝の義理堅い性格が窺える。冒頭の「御参内」とは日付から家康将軍就任の際のことと考えられ、慶長八年に比定される。

38 同年六月十五日 桑名宗社社僧衆・祢宜衆宛判物

 

為春日領桑名之内三町懸ニ而百石従将軍様被為付候条永相違有間敷者也、仍如件、

慶長八年          本多中務少輔

   六月十五日          忠勝(花押)

    社僧衆

    祢宜衆

(「桑名宗社文書」)

〈解説〉将軍・家康の命を受けて桑名宗社へ百石の社領を寄進したもの。桑名藩主として寺社の復興事業に携わっていたことを示す史料の一つである。

39 慶長十年六月十日 宇津木泰繁宛書状

 

今度参候処右近大夫殿種々御馳走、殊御秘蔵之御腰物被下誠泊へ迄被入御念重畳御懇意之儀共忝共御礼難申尽候、可然様御意得候て可給候、随而貴殿色々御馳走殊更遠路御送り迎旁畏悦此事候、将又其地御普請場一段見事候所ニて併大滄之御普請ニて御家中衆不大形御苦労たるへきと存事候、猶重而可申入候間不能具候、恐々謹言、

               本多中務

  六月十日            忠勝(花押)

  宇津木勝三郎殿 御宿所

(「大阪城天守閣所蔵文書」)

〈解説〉井伊家家臣・宇津木泰繁に宛てたもの。彦根城普請に出向いた際のもてなしを謝し、宇津木ら家臣たちへ普請に対する慰労の言葉を述べている。主君の直継(直政の嫡男)とも親密な関係であったことが窺える。年次は「彦根山由来記」による。

40 慶長十二年三月七日 三浦安久宛書状

 

尚ゝ遠路思召寄珍敷物送給一入忝候、我等事去年より眼病気ニ候て于今透共無之候故兵部少殿へも御見舞とも不申候、右之分ニ御座候間目かすミ判形不被成候間印判すへ申候、可被成御免候、以上、

遠路被入御念預御状殊爰元珍敷生成鮒鮨一桶送給候、御懇志之至別而忝存候、其以後者久以書状も不申無沙汰申候、其元御普請無御油断之由御苦労共候、いつれ御手透之時分少ゝ御光儀奉待候、此方御用等を可承候、何様従是可申入候間早ゝ令申候、恐々謹言、

              本多中務

  三月七日            忠勝(黒印)

三浦十左衛門殿 御報

(「三浦十左衛門家文書」)

〈解説〉井伊家家臣・三浦安久に宛てたもの。鮒鮨を贈ったことへの礼状である。また、彦根城普請の苦労を労っている。眼病のため花押が書けず、印判で失礼するとあり、年次は「彦根山由来記」の記すとおり慶長十二年で間違いなかろう。これ以外にも安久宛書状は五通確認されており、親密な関係であったことが窺える。

41 慶長十四年五月二十二日 同人宛書状写

 

 尚ゝ其巳後者以書状さへ不申無沙汰申候、被入御念度ゝ御音信本望存候、以上

此中久ゝ物遠候而内ゝ御床敷候処被入御念預御使殊爰元珍敷生成鮒鮨二桶贈給候、誠桶なと迄被入御念御心ニ入候段祝着之至如仰久ゝ不申承候、折ゝ以書状も可申入候へ共我等も致隠居何方へも不構在候付而無沙汰申候、其元無何事貴殿も御達者にて御座候由何より〳〵目出度御事候、何にても爰元御用之事候ハゝ不被御心置可蒙仰候、猶追而可申入候間不詳候、恐々謹言、

                本中

五月廿二日          忠勝(花押影)

三浦十左衛門殿 御返報

(「中村不能斎採集文書」)

〈解説〉40同様、鮒鮨に対する礼状であるが、「我等も致隠居」とある。「慶長自記」によれば、嫡男・忠政が家督を継いだのが慶長十四年六月とあり、月日的には少し早いものの同年で間違いなかろう。隠居して悠々自適な生活を送っていたことが窺える。

42 同年十一月五日 藤九郎宛免状写

 

     免状          狩野御取次にて

一貝洲崎新田三崎神(以下、欠損)

 田畑何方ノ内ニテモ手柄次第切開可申事

一堤用水之義丈夫ニ可申付事

一諸役所等可致免許事

  右之通相違候間敷者也、仍而如件

   慶長十四年酉十一月五日     御墨印

                     藤九郎

(「桑名市史 本編」)

 

〈解説〉桑名宿の丹羽藤九郎へ忠勝が宛てたとされるもの。貝洲崎新田などの田畑の開拓を奨励し、その代わりとして諸役の免除を申し伝えている。ただし、すでに六月には隠居しているため、嫡男・忠政のものである可能性も否定できないため、検討を要する。

年未詳・未確定文書

43 四月十七日 湯本三郎左衛門宛書状

 

 尚ゝ一日も書状以申候、たかの羽送給候、満足申候、委曲追而可申候

乍幸便一書申入候、扨ゝ先日者其元へ参候処種ゝ御馳走于今難忘存候、其巳後以書状申入候、参着申候哉、伊豆殿御上候事候、節ゝ申談候、如何様来春何とそ致湯治可仕候、其節相積儀可申談候、神殿へ此中も御噂申出候、弥ぬまた我々むすめ方へ御懇志頼入申候、其様御内さまへも言伝申候、恐々謹言、

  卯月十七日           忠勝(花押)

(ウハ書)「               本中務

    湯本三□左様 御宿所         忠勝」

(「熊谷文書」)

〈解説〉真田信幸の家臣で草津温泉を管理していた湯本三郎左衛門に宛てたもの。先日訪問した際のもてなしを謝すとともに、来春は湯治して積もる話をしようと誘っている。また、娘・小松姫へ親しく接してほしいと要望するなど人間臭さが感じられる非常に興味深い内容である。

44 六月八日 同人宛書状

 

 尚ゝ来春者必湯治可仕候、其節別而可申承候、以上、

被入御念御状本望存候事、一伊豆殿御子共達無何事爰元迄御越ニ候、可御心安候事、一伊豆殿御内かたへ不始于今候へ共別而御懇比祝着存候事、一阿我妻留守居被成之由御辛労ニ候事、一先日者見事之鷹之羽給候、忝存候事、一扨ゝ当春之拙者湯治之儀急ケ敷候て于今無念存候事、一爰元御普請ニ当年中も可罷在候、何ニても用候者可蒙仰候事、一御内さまへ以書状可申候へ共能ゝ御意得候て可給候事、一来春ハ必湯治可仕候、其節懸御目相積儀可申談候、なに事も具ニ可申候へ共早ゝ、恐々謹言、

  六月八日        忠勝(花押)          

(ウハ書)「             本多中務

    湯本三郎左衛門殿 御報      忠勝」

(「熊谷文書」)

〈解説〉後に書かれたものと思われる。ここもとに信幸の子供たち(信吉、信政のことか)が無事着いたことなどを知らせている。こちらでも湯治の件や娘への待遇について述べており、湯治好きや子煩悩ぶりが窺える。「爰元御普請」は慶長の天下普請と思われ、わざわざ子供たちの到着を知らせていることから、桑名藩主となった慶長六年以降のものであろう。

45 八月十八日 甚兵衛宛書状

 

 尚ゝ委細九左衛門可申候、金子ほとよく候ハゝ其方へ遣候銀子之外ニ百五十枚ほとたゝ今其地ニてかい候と合候て貳百枚ほとかい可申候、其分金ニ御成被置候而可給候、此ふみ可有火中候、以上、

被入御念是迄早ゝ御飛脚本望存候、其元之様子承満足申候、則小池九左衛門指越申候間其元之儀頼入申候、恐々謹言、

                 本中

  八月十八日           忠勝(花押)

甚兵衛 参

(「本多忠敬氏所蔵文書」)

〈解説〉国許にいた家臣に宛てたもの。国許の様子に満足の意を示すと共に、銀子を金子に替えるよう指示している。この書状から、国許不在の際は在国家臣へ統治を一任していたことが窺える。この書状が大多喜時代か桑名時代かは判断つけ難いが、在国期間からして前者の可能性が高いと考えられる。

46 年月日未詳 小柳弥助兵衛宛書状

 

古参衆新参衆へはや出候知行所付之帳又新参衆へ知行未出し候はぬ米計出知行高積り書立早可給候、恐々かしく、

小柳弥助兵衛殿 参 

(「センチュリー赤尾コレクション文書」)

〈解説〉領中の古参衆・新参衆それぞれに対して、新領地の名を書き付けた文書を、さらに新参衆へは収穫の予定数量を記した見積書を提出させるように、監督役であろう小柳弥助兵衛(側近の一人か)に申し送っている。忠勝の自筆と思われる。

47 六月十日 浄楽寺宛書状写

 

 尚ゝ本佐州への書時の案文委細被見申候、佐州へ能ゝ被仰候而常注候様に専一候、館にも佐州へ状進候、以上

遠路預飛札候、本宮音無川之橋橋去年内府様被仰付ニ而ハ材木相調被至候間唯今懸可申との儀候、本佐州まて書付にて被申上候由得御意候、佐州尤と被仰候由是又近比之御事共候、早ゝ出来候様ニ専一存候、恐々謹言、

  六月十日            本多中務

                     忠勝

  浄楽寺 御返報

(「本宮社家坂本氏所蔵文書」)

〈解説〉伊勢国牟婁郡の浄楽寺へ宛てたもの。去年家康から命じられていた熊野本宮大社前を流れる音無川の架橋工事について、材木が整ったのでこれより開始するとの報告を受けた忠勝は家康、さらに正信へ伝えたところ、尤もであるとの返事をもらったことを知らせた。また、早く完成させることが肝要であり、進捗状況は正信へ逐一報告することを伝えている。桑名藩主となった忠勝が家康と正信へ連絡をとり、熊野大社に関わる架橋工事を取り次いでいたのである。文中に「内府様」とあるので、家康が将軍となる前の慶長六年か七年に比定できる。

48 四月五日 福島武蔵宛書状

 

 追而是非ニ候へ共帷子一ツ内単物壱ツさらし弍ツ進上申候、以上、

急度申達候、其元御普請何程出来申候哉、永ゝ御苦労御気遣共ニ御座候、将亦以書状不申入ふさた申候、何時分可被成御帰候哉、様子承度存候、自然爰元御用有者可蒙仰候、何事□とく可申入候、恐々謹言、

               本多中務

  卯月五日                

忠勝(花押)

   福嶋武蔵様 人々御中

(「岡崎市所蔵文書」)

 

〈解説〉福島正則の近親者と思われる人物に宛てたもの。無沙汰にしていたことを謝し、普請の労いとともに帷子等を贈っている。月日の上の「壬」から、年代は文禄元年と慶長七年に絞られるが、「御普請」は慶長の天下普請のことと思われ、なおかつ発給文書の残存傾向(文禄期の文書は一通のみである)から慶長七年の可能性が高い。

49 十月十二日 田嶋淡路守宛書状

 

急度申候、今度伊勢組之御普請ちと遅御座候へ者上様御機嫌悪敷御座候へ共早速相済候て目出度候、早ゝ伊藤豊左方まて御状忝存候、誠早ゝ相済候事御満足我等弍迄御同前候、猶重而可申入候間不能具候、恐々謹言、

                 本中

  十月十二日           忠勝(花押)

田嶋淡路守殿 御宿所

(「個人所蔵文書」)

〈解説〉天下普請で指揮を取っていた家臣へ宛てたもの。伊勢組担当の普請が遅くて家康の機嫌も如何と案じていたところ、早速完了したとの報告を受けて家康ともども満足していると報じている。彦根城普請の際のものであろうか。

50 七月七日 同人宛書状

 

以上

遠路被入御念預御状殊爰元珍敷御座候鮒鮨一桶被贈下候、御懇志之至別而祝着存候、如御書中旧冬者御出候へ共馳走も不申早ゝ帰御残多存候、何様追而従是可申入候条早ゝ申候、恐々謹言、

                 本中 

  七月七日            忠勝(花押)

三浦十左衛門殿 御返事

(「三浦十左衛門家文書」)

〈解説〉同じく鮒鮨に対する礼状である。安久から忠勝の元に頻繁に鮒鮨が送られていたようで、安久宛書状六通の内、四通が鮒鮨に対する礼状である。その回数から鮒鮨が好物であったことが窺えよう。

51 同月日 同人宛書状

 

 尚ゝ御状本望存事候、爰元御用等候者可蒙仰候、已上、

内ゝ御床敷折節御使札殊爰元珍敷鮒鮨一桶送給候、入物迄被入御念誠之御心付祝着ニ存事候、此間者以書状も不申御物遠ニ候、兵部少殿御祝言近ゝニ御座候条万事御家中衆御用多候ハんと察申候、然者伊州ニ而状申候処ニ其儀御祝着之由余結構成被仰越様ニ而候、何事も懸御目候而可申入候、恐々謹言、

                 本中 

  七月七日            忠勝(花押)

三浦十左衛門殿 御返報

(「三浦十左衛門家文書」)

〈解説〉冒頭で鮒鮨への礼を述べている。また、井伊直勝の祝言が近いため家臣団もさぞ苦労されているだろうと労っている。安久が忠勝へ頻繁に書状を送っているのは個人的な友情も大きいが、近隣大名として若年当主・直勝の後見を頼みたいとの思いがあったためとも思われる。年次は慶長十一〜 十五年の間である。

52 年月日未詳 同人宛書状

 

以上

被入御念尾張大根一台給祝着存候、昨日以状申候、其為御礼此地へも被越候由不懸御目候、何様御隙之折節御出奉待候、猶以面可申候、恐々謹言、

 即刻

猶判形可仕候へ共目あしく候まゝ以印判申入候、以上、

(端裏書)「三浦十郎左衛門殿御返報          本中」

(「三浦十左衛門家文書」)

〈解説〉尾張大根に対する礼状。なかなか面会する機会がなく、暇が出来た際の訪問を待っているとしている。「目あしく」とあるから、最晩年のものであろう。

53 七月二十三日 同人宛書状写

 

 猶ゝ細ゝ御出待入候、以上、

昨日者御出本望存候、殊関ヶ原にて之様子御雑談申我等覚候与相替不申候、貴所御手前一段見事候て常ゝ在所にても皆ゝへも申事候、兵部少殿へも如何様其段いつそ御取合可申候、御用之事候者可承候、恐々謹言、

             本多中務

  七月廿三日          忠勝(花押影)

三浦十左衛門殿 御在所

(「中村不能斎採集文書」)

〈解説〉前日に桑名へ訪ねてきたことへの礼状。当事者同士が関ヶ原合戦の様子について戦談義をしたというのは興味深い。また、安久の手柄を褒めそやし、まわりの家臣たちにも聞かせていたという。武人として安久を高く買っていたことが窺えよう。なお、この原本はネット上で確認されている。(既にネットオークションにて落札済み)

54 七月二十三日 五月二十五日 斉藤三在宛書状

 

 猶ゝ此刀如何候ハん哉、御目聴たのミ入存候、以上、

其巳来不能面謁候、此長かたな御目利頼入候、代金貳枚ト申候、不苦候者取可申候、大形様子ハ気ニ入申候、され共悪候者取間敷候、貴殿次第可仕候、恐々謹言、

  五月廿五日           忠勝(花押)

(ウハ書)「             本多右近

    斉藤与惣右衛門殿 御宿所     忠勝」

(「蜷川家文書」)

〈解説〉斉藤三存へ長刀の目利きを依頼しているもの。相当信頼しているようで、三存の判断次第で持っておくか手放すか決めると述べている。武将らしい刀剣蒐集を趣味にしていたことが窺える。通称が「右近」と間違っているが、花押が他のものとおおむね一致することから後人の手による誤記であろう。なお、三存は明智光秀の家臣・斉藤利三の子である。